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コラム

受傷経緯そして病院生活

「君は一生歩けない。」と宣告

1994年11月7日に建物の屋根の改修工事現場視察で栃木県に居ました。屋根と言う事もあり、足の踏み場には注意はしていたものの、約7M下の工場内に転落。脊髄を損傷(TH11)。運悪く落ちた所にフォークリフトが来て、フォークリフトの爪が左頭部に激突。そのまま救急搬送されました。


当時の新聞

病院に搬送後脳神経外科に於いて、損傷した左頭部の開頭手術を受け、一週間後整形外科にて脊髄の手術を受けたとの事でした。私自身転落時から意識が無く、気が付いたらベットの上と、いう状況でした。
受傷時29歳の私は、結婚して2年9ヶ月。2人の子供は家内の実家に預けた状態で、家内は病院に詰めてくれておりました。
事の大きさに実家の福岡県からも両親と姉が病院に来てくれていました。私自身「屋根から落ちたんだな」と思っただけで、「頭の手術が終わり、足はリハビリすれば動くものだ。」と、思っていたので、すぐ退院出来ると思っていました。

その後、外して消毒していた左頭部の頭蓋骨を元に戻す手術を年末に行う予定も高熱が出て延期。初めて病院で新年を迎え、年明け早々手術し暫く様子見るも、中々改善に至らず。結果脳外科の担当医からの言葉は「再手術が必要。しかし、医学的に6ヶ月間期間を開けなくてはならないが、ここの病院は救急病院の為6ヶ月入院する事が出来ない。故に転院が必要」と宣告されました。と同時に整形外科の担当医から「君は一生歩けない。」と宣告されました。

「殺してくれ。」

ベット近くに居た家内に聞いて見ると黙ってうなずいていました。
家内に「足が動かないの知っていたの」と確認すると「知っていた。でも言えなかった。」と。

ショックが大きく、暴れました。しかし暴れようも身体は思うように動かない。下半身は全く動きません。結婚して2年9ヶ月。私が思い描いていた家庭像が見事に目の前で崩れて行きました。この動かない身体で家内と2人の子供達をどの様にして守る事が出来るのだろうか。
何をしても動かない。言う事も効かない。家内に「殺してくれ。」とも言いました。
気持ちばかりが暴れており、家内に八つ当たりでした。
(家内には本当に申し訳ない事しました。本当にごめんなさい。)

この時期です。あの「阪神淡路大震災」が発生したのです。ベット上にてニュースを聞きました。
しかし私にはあの大惨事は耳には入りません。病棟看護師全員が私達夫婦の事を心配してくれ、常に気にかけて頂き、病室を通る度に覗いてくれていました。
私は「生ける屍」状態です。

その後家内は、転院伺いの為に病院から借りたレントゲンのコピーを持参して、埼玉県の二ヶ所のリハビリ病院を訪問していましたが、二ヶ所共脳外科の手術がある事で受け入れを拒否される事に。
当時、家内は私と一緒に病院で、2人の幼い子供達は家内の実家とバラバラに生活していました。「このままでは子供達が可哀そう。」と、言う事もあり、私の実家近くの福岡県の病院に転院を考え、受け入れが了承されました。

そして、転院当日1995年2月21日早朝にお世話になった栃木県の病院スタッフに見送られ、民間救急車にて一路羽田空港へ。車椅子で初めて飛行機に搭乗。空路福岡空港へ。空港到着後すぐさま病院へ直行。昼過ぎには到着。こんな形で帰省する事になるとは、複雑な気持ちでした。

再スタート

家内・子供達は私の居ない私の実家での生活がスタートし、私も九州の病院で再スタートとなりました。

頭の再手術迄リハビリもままならず、入院生活を送っている日々でしたが、その入院中の3月にあの「地下鉄サリン事件」の発生。その事をベット上で知りました。

そして、8月7日に再手術を受け、結果左頭部の自分の頭蓋骨は人工骨に形を変えて右頭部の頭蓋骨とワイヤーで頭の中で繋がっています。術後約一ヶ月の経過観察の後、脳外科の治療は無事に終了しました。

さて脳外科の治療が落ち着き、生活は本格的なリハビリの開始となります。リハビリ専門を併設している病院と言う事もあり、入院患者は私と同じ状態の人たちです。しかし、私自身車椅子を受容した訳ではありません。

身長182cmで、高校まで剣道・大学では運動部のアメリカンフットボールをやっており、運動・体格的には自信を持っていた私が受傷後1mちょっとの目線になってしまいました。今までの視線が変わってしまった事で受けた精神的ダメージは計り知れません。勿論、車椅子の使用は到底受け入れられない私の事を家内は病院リハビリ科担当医に相談していたようで、後日担当医から直接話を受けました。

「今は歩けないかも知れない。でも5年後10年後になって医学の進歩で歩ける様になるかも知れない。その時の為に自分の車椅子を作り、リハビリをして身体の準備しておこうよ。」
とアドバイスを受けました。その「将来歩ける」と言う言葉を信じて自身の車椅子を製作し、本格的な リハビリがスタートしました。

理学療法・作業療法の各担当療法士から連日指導を受け、ベットから車椅子の乗り移り・車への乗り移り・車椅子の前輪上げ等、車椅子操作が日に日に上達していきます。時には、車椅子で階段昇降やエスカレーターの利用方法等も習います。

そして、車椅子操作もある程度習得し、脳外科の経過も問題も無く、退院許可が下りる事となりました。各準備を済ませ、受傷後1年4ヶ月。2つの病院での入院生活を経て、無事1996年3月8日に退院。埼玉に戻り、身体障害者手帳(障害名 頭部外傷・脊髄損傷による四肢機能障害) 1種1級保持者となり、車椅子使用者としての新しい生活がここから始まりました。

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